first_issue3205’s diary

ダイエット記録をたまに載せます。

独白。

ロッキングオンの音楽文サイトの投稿が出来なくなっていたのを忘れていた。

ジェイクバグの新作について何か書きたかったのだが、もうこのサイトには投稿できないので、代わり(?)に先程、自分のダイエット記録を載せた。

私はこういういい加減な衝動というか動機で動いているところがあるので、ロッキングオンの投稿機能はいいストレス解消になっていた。大変に邪な動機での投稿であるとは承知している。

自分はいつから体を鍛え始めていたのかというと、小学生の頃に水泳を習っていたこともあり、中学生になって、夜間に腕立て伏せと腹筋と背筋をしていた。高校の時はやっていなかった。それから時が経ち、やや太ってしまい、近年になって再開した。

おかげで職場での健康診断でもとくに異常はない。

これで体重80キロのままだったら悪い数値が現れるのだろうけど、60キロ台に戻せて良かった。

衝動の行き場とストレス解消に軽い運動はいいと思い、体は今後も鍛える。f:id:first_issue3205:20210924035244j:image
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ダイエット記録

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これは昨夜の帰宅後の画像である。

Twitterにもダイエット記録を載せているけど、こっちにも載せます。

ちなみに体組成計の数値も。f:id:first_issue3205:20210924030529p:imagef:id:first_issue3205:20210924030548j:image

普段は歩き仕事をしているのでいい具合に脚が締まっていく。

なるべく朝に軽い運動をするようにしている。

過去の画像も貼る。f:id:first_issue3205:20210924030808j:image

 

ストーンズの音楽文

これを書いたのも昨年。

2006年に札幌ドームでストーンズを見ました。

 

私は1984年生まれである。洋楽を聴くようになったのは中学、高校のときだった。ローリング・ストーンズを聴き始めたのは、高校一年のとき。その時点において、ストーンズが出していた最新アルバムは、『ブリッジズ・トゥ・バビロン』だった。1997年のこのアルバムは、当時キャリア30年以上のバンドの音にしては現代的で、やや後追いで聴いた私も、大いにのめり込んだものだった。2002年に、当時のベスト盤である『フォーティー・リックス』がリリースされた。当時、ストーンズはキャリア40年の節目に、「リックス・ツアー」を敢行。ミックは、「チャーリーは1963年まで参加していなかった」ため、「40周年ツアー」という呼び方をしなかった。「フォーティー・リックス」に収録された名ナンバーももちろん素敵だが、にわかなファンとしては、最新のオリジナルアルバムをリアルタイムで受け止めたかった。

2005年、『ア・ビガー・バン』がリリースされるとストーンズのオフィシャルからアナウンスされる。8月31日、札幌のタワレコでCDを買った。冒頭の「ラフ・ジャスティス」から、圧巻のグルーヴに圧倒された。とても60過ぎたジジイのボーカルには聞こえなかった。キースのギターも、チャーリーのドラムスも、熱い臨場感に満ちており、聴いているこちらも圧倒されるのだった。彼らはまったくムリをせず、おしまいのキースの『インフェミー』が終わったあとも、演奏を続けるかのごとき勢い。とてつもない生命力に、元気のない大学生は圧倒された。その中で絶品だったのが、キースの『虚しい気持ち』だった。「お前抜きでは虚しい」と歌うキースは、まさに生ける伝説だ。近年はミュージシャンが還暦過ぎて活動するのは珍しくないが、ミックも、キースも、チャーリーも、70を過ぎても活動するんじゃないか、と聴いているこちら側が心配になるほど、呆れるほど元気だった。

実際、2014年に、70歳になったミックはストーンズとして来日している。2012年に出たベスト盤の『GRRR!~グレイテスト・ヒッツ1962-2012』に入っていた「ドゥーム・アンド・グルーム」「ワン・モア・ショット」には圧倒された。枯れる気配がない。これまであらゆることを受け入れて生きていたバンドが、これからもあらゆることを引き受けるぞ、といわんばかりの、現役表明だった。実際、最新のベスト盤『HONK』には、デイヴ・グロール、フローレンス・ウェルチエド・シーランらとの共演が収まっている。フローレンスが歌う「ワイルド・ホース」が特に素敵だった。1971年の曲なのに、古い感じがまるでなく、2010年代のストーンズのナンバーになっているのには、驚くしかない。

「良い曲はワインのように、時間が経つほどよくなっていく」とキースは言っていた。1965年の「サティスファクション」も、発表されてから50年以上経った今でも演奏されている。『HONK』に収録されている、デイヴ・グロールとの「ビッチ」も、発表当時より素敵になっていた。それは、ストーンズ史において「名盤」とされているレコードに限らない。駄作の部類に入るかもしれない『ダーティー・ワーク』『アンダーカヴァー』の曲も、しっかりとストーンズの曲であり、彼らのクラシックだ。『アンダーカヴァー』の「シー・ワズ・ホット」も、スコセッシの映画『シャイン・ア・ライト』の中で演奏されていた。

どうして私はストーンズを聴き続けるのか、と自問してみた。ストーンズの曲や、ストーンズの生き方が、我々市井の人間に共感されやすい為ではないか、ということに思い至った。生きるためには、学校に行ったり、仕事に行き、食事をつくり、寝る、という人間の等身大の生活を、ストーンズは裏切らないのだ。黒人音楽を学び、カバーし、オリジナル曲をライブで演奏する。ライブに来てくれた客には、最大のサービスと敬意を払う。そういった、バンドの基本をけして逸脱しない。さすがに2020年になり、彼らも年齢が年齢なので、オリジナルアルバムを作るのは体力的に無理かもしれない。2016年の『ブルー&ロンサム』はカバーアルバムであった。

60年代から黒人音楽を演奏してきた彼らは、ルーツを重んじ、演奏することが大事だとわかっている。彼らが80歳になったら、さすがに活発なライブ活動は無理になってくるだろうけど。それでも、ストーンズは終わらない。16歳から彼らを聴いてきて、彼らがいなくなることなど、考えられない。もうこの世でロックをやる人は激減しているが、ロックンロールは終わらない。等身大の人間の生活と、ロックのありかたが乖離したとき、ロックは終わってしまうだろう。私たちの生きる現実を、ロックは映し出している。市井の人間の生活が終わるということは、ロックが終わるということだ。ロックが終わるということは、ストーンズが終わることである。どれだけ金を稼いでも、ストーンズはいつまでも反体制で、ならず者である。私たちがストーンズを聴くのも、理不尽な現実に抗おうとしているためである。抗いつつ、日々の生活は送らねばならない。ストーンズは生き方である。生きて、日常とたたかうことこそ、ロックなのだ。間違っても、ドラッグに溺れたりすることはロックではない。私たちがあきらめずに、自分の力で生きて、理想を追い求めつつ現実とたたかうこと、それこそがロックなのだと、ストーンズは私に教えてくれたのだ。

 

ストーンズは2020年にも新曲を出した。私は255円をiTunesに払った。

昨年に書いたニルヴァーナの文。

これは昨年に書いて掲載された。

 

ニルヴァーナの『ネヴァーマインド』が発表されて、来年で30年になる。「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」からもう29年なのだ。2021年にもしかしたら、節目の年として何かがあるかもしれない。私自身にとってニルヴァーナは『ネヴァーマインド』というより『イン・ユーテロ』である。「スメルズ」よりも「セントレス・アプレンティス」である。「ブリード」よりも「オール・アポロジーズ」である。

カート・コバーンははじめ、80年代には、マッドハニーやメルヴィンズのようなパンクバンドを目指していたという。要するにビッグ・ブラックである。アクセル・ローズというより、スティーヴ・アルビニである。
そんな屈折していた(であろう)ニルヴァーナは『ブリーチ』のあと、1991年に『ネヴァーマインド』でビッグになってしまう。80年代ふうなネガなパンクや、やかましヘヴィメタルは、一掃されることになった。「ハロー、ハロー、ハロー、どのくらいひどい?」「混血、アルビノ、蚊トンボ、オレのリビドー」というフレーズとともに、カートは、ニルヴァーナは巨大になった。

もともと、メルヴィンズになりたかった彼らにとって、『ネヴァーマインド』は到達点ではなく、たんなる通過点だったはずだが、リスナーは「スメルズ」や「イン・ブルーム」を求める。92年時点で『イン・ユーテロ』に収録されることになる曲は演奏されていたが、観衆が求めたのは「ポップ」なニルヴァーナで、『ネヴァーマインド』だった。彼らニルヴァーナにとって、忸怩たる思いだっただろう。「パープル・ヘイズ」ばかり求められるジミ・ヘンドリックスのようだっただろう。

そんな歪んだ「グランジ」は、当時、終焉に向かっていた。
そしてアルビニが93年にハイスピードで『イン・ユーテロ』を録音する。
冒頭の「サーヴ・ザ・サーヴァンツ」からして、彼らニルヴァーナは疲弊していて、ノイズだらけである。「従者に従えよ」「審査員たちが審査している。自分が売りつけた以上のものを」。
「セントレス・アプレンティス」「レイプ・ミー」、カートはここで、歪んだ自身を余すことなく曝け出している。「俺は土の上に横たわりマッシュルームの肥やしとなる」「俺をクビになんてできないぜ。こっちから辞めてやるんだから」「オレを火の中に投げ入れてみろ。オレは癇癪なんか起こさないぜ」、「オレを憎んでくれ。俺をやっつけてくれ。俺をたっぷり味わってくれ」…『ネヴァーマインド』では考えられない、80年代パンクのような、衝動と反抗が混ざったような、歪んだロック。どこにも聴きやすさはない。今でも、あまり評価されない作品だろうが、『ネヴァーマインド』を手放しで受け入れられない人間は、今もこの作品を支持する。

たしかに、ニルヴァーナがデカくなったのは「スメルズ」のおかげだろう。『ネヴァーマインド』が売れなければ、次の作品も作れなかったかもしれない。でも『ネヴァーマインド』からも「スメルズ」からも、ニルヴァーナ特有の歪んだパンク精神は読み取れる。外側のパッケージ、プロデュースが立派すぎたからあれだけ売れたが、本来は『イン・ユーテロ』に収録されていてもおかしくないロックである。

そして『イン・ユーテロ』の「ダム」「トゥレッツ」「オール・アポロジーズ」、アメリカ、シアトルの底辺をさまようネガな青年のうめき声を書き起こしたようである。それがスティーブ・アルビニによって更に無残で素晴らしくなっている。「オレは奴らとは違う。だけどオレだっていろんなふりをすることはできる」「太陽の光の中 オレは一つになった気分 結婚してくれ 埋葬してくれ」「こんな自分でなくてどうあればいいのか、本当にごめん」…これらが結局、カートの遺言となった。メルヴィンズを目指した青年は、自嘲と自虐の末に死んだ。

70年代には、キャプテン・ビーフハートがいた。彼らが残した『セイフ・アズ・ミルク』は、早すぎたパンクであり、早すぎたグランジだ。『美は乱調にあり』の「ホット・ヘッド」は、70年代の「スメルズ」ではないか。ビーフハートの遺した音の塊は、単なるクラシックロックではない。もう誰にも聴かれていないが、人間を突き動かしている生の原動力がある。彼らが「正」ならニルヴァーナやメルヴィンズは「負」だった。衝動の向かうベクトルが異なるだけで、根っこは同じものだったと思う。ビーフハートにはフランク・ザッパが居て、カートにはザッパがいなかった。この違いも大きいと思う。

2020年現在、音楽が殆ど無料になり、アメリカのロックも随分高齢化してしまった。ロックはダサくなり、EDMも消滅寸前である。レディー・ガガビヨンセアリアナ・グランデたちは奮闘している。昨年、元ソニック・ユースのキム・ゴードンが『ノー・ホーム・レコード』を出した。元パンクスの、自己表現である。ジョー・ストラマ―も、クラッシュの後は、彼自身の表現に向かったと思う。こういう例えが許されるなら、もしカートが生きていたら、ニルヴァーナのあとはどこへ向かっていたのだろう。ジョン・ライドンはPiLに向かい、ブライアン・イーノアンビエントを作るようになった。カートはもういない。もし生きていたら、今でも、かつてジミヘンがそうだったように、今でも「スメルズ」をやれ、と言われているのかも。私たちがビリー・アイリッシュを称え、彼女を聴くのも、そういうことと根本は似ているのかもしれない。 

 

2021年で『ネヴァーマインド』から30年だけど、何かあるだろうか。

John Fruscianteとレッチリ。

これも掲載された。七連作時代が懐かしい。

 

2004年の春ごろだっただろうか。もはや正確な記憶はないのだが、レッチリのギタリスト、ジョン・フルシアンテが一年に7枚、ソロをリリースするとアナウンスされたとき、私は既にジョンの三枚目のソロ『トゥ・レコード・オンリー・ウォーター・フォー・テン・デイズ』を履修済みだったと思う。それからだ、『シャドウズ・コライド・ウィズ・ピープル』のCDを旭川玉光堂で買って、聴いた。もう全19曲、すべてが素晴らしく、その後の6枚も追いかけて聴くと決めたのだった。
レッチリを聴き始めたのは、2001年ごろ『カリフォルニケイション』を聴いたのがはじまりだった。MDにコピーして、ボーナストラック含め繰り返し聴き、すっかりはまってしまった。ジョンの前任ギタリストのヒレル・スロヴァクについては、無礼なことにまったく詳しくない(全レッチリファンから袋叩きにされそうだ)。後追いで『レッド・ホット・チリ・ペッパーズ』『フリーキー・スタイリー』『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン』を聴き、フルシアンテ以前のレッチリの音楽の豊かさを知った。大学一年のことだった。
『ザ・ウィル・トゥ・デス』を聴き、そのサウンドの憂鬱さに、うっとりしてしまった。当時人気絶頂のバンドのギタリストのソロには、聞こえない。物憂げなのだ。内向的で、人見知りしそうな青年がつくる音楽、という印象を受けた。もともと、ジョンの三枚目の『トゥ~』を聴いたときから、かれは内気で寂しがり屋なんだろうな、とは思っていた。あえて比較するけど、エアロスミスジョー・ペリーの2005年に出たソロ作品は、エアロのギタリストらしい、ハードロックだった。これはどちらが優れてどちらが劣っている、というものではない。ジョンの『ザ・ウィル・トゥ・デス』の次のアタクシア名義の『オートマティック・ライティング』、初期PiLのごとき、ベース、ギターの尖った演奏が特徴的で、『ザ・ウィル~』とはやや違う内容だった。その次の『DC EP』『インサイド・オブ・エンプティネス』は、純粋なロックンロール。友人たちとのセッションを楽しんでいるようだった。
一枚一枚に心が籠っている。同じものは作りたくなかったのだろう。レッチリのメンバーとの共同作業での、役割分担意識はなく、個人で(オマー・ロドリゲスとの作業はあったが)個人の限界を探っているようだった。ジョンがのちに『レター・レファー』で試したようなシンセ・ポップを2004年にやったのが、ジョシュ・クリングホッファーとの『ア・スフィア・イン・ザ・ハート・オブ・サイレンス』だと思う。ジョンがポップ寄りになった分岐点にあたるかもしれない。彼は基本的にギタリストだと思うけど、のちのトリックフィンガー作品や、ブラックナイツとの作業では、ジョンの違う面を垣間見ることができる。『カーテンズ』、リリースは2005年になったが、物静かなジョンがいた。彼自身の知性と知識が籠った、7連作の最後に相応しい作品だった。
ジョンは2009年の『ザ・エンピリアン』以降、あまりギタリストとしての主張をしていないようだ。近年、彼はレッチリに復帰した。見失っていた自身を取り戻したかったわけではなく、あくまで原点回帰ではないだろうか。ジョンの2014年の『エンクロージャー』、2016年の『フォアグロウ』の二枚は、ジョンらしい作品には聞こえない。『エンピリアン』で極めて高い音楽を作ってしまい、自身の限界、いや頂点を彼は見てしまった。その後のソロはあくまで試行錯誤の最中の作品だったのではないか。
ジャンルは違うが、リチャード・D・ジェイムス及びマイルス・デイヴィスを考えた。エイフェックス・ツインはドリルンビートだけでなく、アンビエント作品その他、作品群でリチャードを定義できないほど、多彩な作品群を誇っている。マイルス・デイヴィスはオーソドックスなジャズ作品だけではなく、アダレイ、ビル・エヴァンスコルトレーン達と常に違う自分を表そうとしていた。どちらも、才能があるゆえに、ひとつだけのことにこだわれない。コルトレーンはけして多才ではなかったが、彼自身の限界を追求し、後世に残る数多くの録音を残した。反対にマイルスやリチャードのように才能があると、常に違うことを試みようとするのだと思う。両者は後世に残る録音をたくさん残したことについては同じだが、あまりに才能があると、一つだけのことには没頭できないのだと思う。
フルシアンテも、幼少期からギターを触っており、溢れるほどに才能があった。常に新しいことをやろうとしているのだと思う。レッチリはジョンが一時辞めたあとに、ジョシュと組んで二枚作品を出した。レッチリの背骨と頭脳にはアンソニー・キーディスとフリーがおり、彼らはロック・ポップス界で常に変わろうとしてきた。イングランドにもローリング・ストーンズがいる。どちらも、ロックでありながら、ポップ性と無縁なバンドではない。レッチリに2019年に、ジョンが復帰した。今後、どう動いていくかはわからないが、常に変わろうとする姿勢は、忘れないのではないか。ミクスチャーロックから始まった彼らは、90年代、00年代において、いつでも新しくあろうとしてきた。彼らは変化を恐れていない。その姿勢とイデアは忘れて欲しくない。
ジョンは10年代、試行錯誤中だったのではないか。その彼が、レッチリに復帰した。私のようなファンには嬉しい。ジョシュ・クリングホッファー時期のレッチリは彼らにとって、通過点ではなく、貴重な財産だと思う。誰がギタリストでもレッチリは動くわけではないが、彼らには進化をやめて欲しくない。ジョン・フルシアンテ自身も、今までの7連作もシンセ・ポップ時期も含めてが彼自身の財産であり重要なキャリアである。彼らの次なる挑戦を、我々ファンは待っている。そしてライブではやはり「ギヴ・イット・アウェイ」や「アンダー・ザ・ブリッジ」が演奏されることと思う。いつでも音楽に対して勤勉で貪欲。それが私にとってのレッチリで、ジョン・フルシアンテである。

 

ジョシュ・クリングフォッファー時期のレッチリの作品も面白かった。

レッチリの今度の新作はいつになるか。