first_issue3205’s diary

ダイエット記録をたまに載せます。

トム・ヨークとレディオヘッドについて。

これも掲載された。トム・ヨークについて書いた。

 

当時、大学生でありながら、精神科に通っていた。大学にろくに出席できないほど鬱と薬の副作用がひどかった。2006年当時、古い向精神薬がまだ普通に処方されていて、喉が渇く、便秘、体が痒い、眠れない、等、人生で最悪の時期を過ごしていたんじゃないかとすら、今でも思う。私は大学生活、けして辛いことばかりではなかったけど、この時期に関してはいい思い出があまりに少なかった。
2006年。レディオヘッドとして、アルバムは出さず、トム・ヨークはソロを発表。「ジ・イレイザー(消しゴム)」。
もとから暗く内省的なトム・ヨークは、さらに内に籠って、当時の世界で悩んでいるようだった。「きみが僕を消そうとするほど、僕はさらに目立ってしまう」という歌詞は、レディオヘッドでのそれより、さらに内向的になっていた。とても当時の最高峰のバンドの親玉の作品ではなかったが、我々ファンは、こういう作品こそトム・ヨークだな、と思っていた。
フィリップ・K・ディックの『暗闇のスキャナー』(『スキャナー・ダークリー』とは書きたくない)が、映画になったのはその年で、エンディングに「ブラック・スワン」が流れていた。済んだことは蒸し返せない、君は取り繕うとしているけど、うまくはいかないよ、と絶望的なことしか歌っていなかった。当時の私は、あまりにも心に来るものがあったので、何十回、何百回と聴いた。そのころ、大学卒業は絶望的になってはいたが、なんとか除籍扱いにならないようにことが運んではいた。その翌年に教育実習に行けるようにしてくれたのには、感謝しかない。私は、その感謝を仇で返すようなことしかしていなかった。病気は一向に治らず、年金は払っていたものの、奨学金を借りていた。将来に関しては、不安と絶望しかなかった。
「ジ・イレイザー」「アトムス・フォー・ピース」「ハロウダウン・ヒル」といった曲は、バンドの音楽ではなく、のちのアトムス・フォー・ピース活動のような、パソコンで作ったソロ。レディオヘッドでは辛うじてロックだったかもしれないが、これにはどこにもロックはない。トム・ヨークの捻くれた歌詞は、暗に、「それ見ろ、言ったこっちゃない」と告げていたように聞こえる。「キッドA」で歌っていたこの世界の終わりの始まりが、洒落にならないレベルで「そうなってしまった」のだから。サダム・フセインが捕まって、「正義の戦争」は意義のあったことにされそうだったが、それから10年以上経った現在を見ると、イラク戦争が始まる前の世界のほうが、今現在よりはるかに良かった。北海道の田舎でも、イラク戦争のあと、失業者は増加していたんじゃなかったか。物価は上がらないが、賃金もたいして上がっていない。消費税は上がったけど、それで良かったことが何かあっただろうか。
トム・ヨークは、世界が終わるのをこの目で見ていて、どう思っていただろう。『OKコンピューター』の頃から、トムは「間違っているのはお前たちだ」と言い続けてきた。それが本当のことだったから、トムは嬉しいだろうか。嬉しくないだろう。私が洋楽を聴き始めたのは、身の回りの曲が恋愛ソングばかりでつまらなかったからである。音楽番組をある時期からすっかり見ていない。どうでも良くなったのである。セックス・ピストルズローリング・ストーンズを聴くようになった。その頃からうつ病は始まっていた。
トム・ヨークは、レディオヘッドよりはるかに内気で暗い「ジ・イレイザー」のあともソロを出した。2019年の『アニマ』の切実さは、『ジ・イレイザー』ほどではない。ふしぎだが、余裕をアルバムのどこかから読み取れる。私じしん、2006年時点ほどつらい状況ではない。職はあるし、ある程度余裕がある。『ジ・イレイザー』の時点でトム・ヨークには余裕があっただろうが、あの、00年代特有の生きにくさは、今の人たちにわかるだろうか。ストリーミングも、電子書籍もなかった時代である。youtubeすら、なかった時期なのだ。それらがある現代が最高というわけでは、もちろんない。00年代、いったい何を目標に生きればいいのか、分からなかったのである。
レディー・ガガが出て来る以前の話で、コールドプレイやアークティック・モンキーズの時代だった。指標というものがなかった。インターネットではブログ時代だったと思う。個人がなんでも発信できる時期だった。音楽がタダになりつつあった時代でもあったのでは。youtubeが出来て、いくらでもタダで聴けるのだから。
この頃から、トムは内向的で否定的だった過去から、抜け出した。『OKコンピューター』では時代の寵児だったが、『ジ・イレイザー』から、どこか変化していった。この翌年、レディオヘッドはアルバムをタダで配信。大物ミュージシャンだから出来たのだ、という批判は当然あるだろう。それも見越していたんじゃないだろうか。
レディオヘッドやその周辺は、00年代を境に、変わってしまった。モノを消費する、という行為に我々市民が飽きてしまったととることもできる。今では、定額で映画やビデオが見放題で、電子書籍も安いものだとどこまでも安い。youtubeでは映画や音楽をいくらでも見られる。聴ける。モノが安くなって、人間の欲望も減ったのだろうか。私が10代だった90年代は、辛うじてみんな欲望があった。90年代前後ににオウム事件が起こって、どこか風向きが変化した。欲望を持つのに後ろめたさを感じるようになってしまった。
「間違っているのはお前たちだ」とトム・ヨークは90年代に歌っていたが、00年代以降、何が正しくて何が間違っているのか、定義があやふやになり、10年代にはそれがさらに混沌としている。『OKコンピューター』はやや古臭いアルバムになり、世界は『KID A』『アムニージアック』で表現されたようになった。20年代以降、これは加速するのだろうか。そもそも20年代に新たなレディオヘッドは現れるのか。90年代と00年代に青春を迎えた人間としては、世の中がラブソングばかりで退屈に思え、パンクやテクノに逃避していた若い頃の自分が懐かしくて仕方がない。いったい、21世紀になって生まれた人たちは何を指標に生きるのだろうか。

 

大学時代は楽しいこともあったけど、同じくらい辛いこともあった。幸いなことに睡眠導入剤はもう飲んでいない。

ベックについて書いたもの。

これも掲載された。ベックについて書いたものだ。

レディー・ガガベック・ハンセン(以下ベック)のことを、「私のジェネレーションにとってのデヴィッド・ボウイ」と呼んだことがある。なるほど、ベックは『メロウ・ゴールド』『オディレイ』でも『ザ・インフォメーション』でも、常にボウイみたいに、時代の鏡となって、我々の欲望を表現してきたように思う。今現在、殆どのベックの作品はオンラインで聴ける。そのどれを聴いても、内省的で、孤独である。「俺は負け犬だ」「殺せよ」と歌っていたころから、そうだったと思う。

日本だと、ベックの音楽は「内省的」「脱力系」と言い表されがちだ。
たしかに、ハードロックやオーソドックスなロックみたく、分かりやすさはあまりない。だけど、それで済ませていいのだろうか。聴きやすいポップスだから、脱力系なのか。汚い、下品な言葉を使わないから、内省的なのか。
私がベックを聴き始めたのは、『オディレイ』か『メロウ・ゴールド』だったと思う。やはり穏やかなロックで、聴きやすい。取っつきにくさがないので、仕事に行く前にも、帰ってきてからも聴ける。

私も、ベックは、現代のボウイだと思う。大島弓子の漫画に出てきてもおかしくない風貌で、人々の孤独や寂しさを表現している。
これを書いている最中にも、スマホで『ミューテイションズ』がかかっている。今、深夜だが、すうっとアタマに入って、消化できている。それほどに私の脳味噌が00年代初頭なのか、あるいは90年代末期なのか。ともかく、ボウイのように、リスナーの欲しいものを提供している。人々の欲望を分かっているのだ。それが顕著なのが、2002年の『シー・チェンジ』だと思う。イギリスで『キッドA 』『アムニージアック』が発表され、片やアメリカではストロークスホワイト・ストライプスが出てきたころのこと。ロックとはそもそも何であるか、ロックはどうあるべきかが問われていた時期のことだ。

ベックは『ザ・ゴールデン・エイジ』『ペーパータイガー』という極めてトーンの穏やかな曲で、虚無を歌っている。まるで日本のお坊さんみたいである。まさしく、デヴィッド・ボウイだと思う。ロック・ポップスというフォーマットがもはや過去のものになりつつあり、その動き、大衆の移ろいを、これまたゆるやかな、あえて悪い言葉を使えば軟弱な曲調で、言い表していた。
2020年の今、『シー・チェンジ』はもう過去のものだ。デヴィッド・ボウイの『ヒーローズ』が当初は新しかったが、今聴くとそうは思われないように。

『グエロ』『モダン・ギルト』という00年代の作品も、漏れなく傑作である。イギリスでコールドプレイが、アメリカではマイケル・ジャクソンが裁判中で、ビヨンセレディー・ガガが出てきた頃のことだった。もうロックが完全に古くなっていて、我々もとうにギターロックを過去のものとして消費していた。『モダン・ギルト』を残して、ベックは沈黙する。不思議だけど、デヴィッド・ボウイが『ヒーザン』『リアリティ』を発表して一時消え去ったのと、似通っている。

『モダン・ギルト』は素敵だった。というより、ロックがとうに終わった時代で、ベックは気を張らずに、自然体を装っていたようにも思う。もう、自分の時代じゃないと分かっていて、療養の時期に入っていった。歌詞もどこか平凡だったと思う。サウンドは相変わらず、カッコいいのに。

そして2014年。前年にボウイが『ザ・ネクスト・デイ』で全世界を歓喜させたように、復活した。『モーニング・フェイズ』は文句なしに素晴らしい。時代はEDMだというのに、華麗で美しいポップスを披露して、我々ファンの前に現れた。
その間の6年間の沈黙の間、私自身は、体調不良と大学の中途退学が重なり、苦しく辛い時期があった。今でこそ定職があるけど、10年代の初めは辛かった。ベック自身も、デヴィッド・ボウイも、その間は闘病していたのではないか。2009年に、マイケル・ジャクソンが亡くなる。レディー・ガガが出てきて、EDMの全盛期がやってくる。ロック・ポップス受難の時期だった。

『カラーズ』『ハイパースペース』と連続して、作品を発表。これがまた傑作だった。90年代から活動している人間は、大半がくたばっているというのに。なのにベックは、大島弓子『ダリアの帯』の黄菜のごとく、若い風貌をしている。
『ダリアの帯』の黄菜は、妊娠していたところを、階段から転げ落ちて、狂ってしまう。只野一郎は、黄菜の奇行に振り回される。なぜこの作品を思い出したかというと、いつまでも年をとらない黄菜が、変にベックを思い起こさせるから。そして、振り回されている只野一郎は、常に欲望を追い求めている、我々一般人に、どこか重なるからだ。
我々一般人は、ボウイやベックのような、ポップスターに願望を、欲望を被せ、込めて、消費してしまう。あるいは自分がポップスターになった気分になってしまう。ステージ上で表現している人間は、赤の他人に過ぎないのに。只野は、黄菜のおかしな振る舞いに四苦八苦する。何も黄菜本人になったわけでもないのに。同じ家に住んでいるだけで、ほんらいは他人である。

私たちは、マドンナやマイケル・ジャクソンに己が願望を込めて、彼らの振る舞いに一喜一憂する。ポップスターに、自分を投影してしまう。だがそれは一時のことである。所詮は他人なのだから。いつかは、ボウイのように、いなくなってしまう。80年代に人気だったマイケル・ジャクソンも、とうにこの世にいない。この世にいないのは、既に使い古され、消費されたからだ。我々は、ボウイやマイケルの死に一寸の責任もないと、言い切る自信があるだろうか。大仰なことを言えば、かつてのドイツには、ヒトラーがいた。ヒトラーはまさしく、当時のドイツが生んだポップスターではなかったか。
我々は、只野一郎なのである。ボウイや、ベックは、黄菜である。
黄菜は、今も生きているだろう。我々の欲望が死に絶えない限り。使い古されて、マイケル・ジャクソンは、死んだ。
ボウイは、どうやら黄菜のように、今も聴かれている。生きているのだ。さっき、ボウイもマイケルも死んだと書いたが、マイケルだって、レコードやCDは未だに生きている。ポップスターは、姿は死んでも、音楽や映像までは死なないのだ。悲しいかな、ヒトラーですら、本人は死んだが、その振る舞いや信条はかすかにだが、しぶとく生きている。

話がそれたけど、只野一郎たる我々は、ベックを聴き、消費している。それは、自然なことである。70年代にはボウイがいて、80年代にはマイケルがいた。今、我々には信仰の対象物がいくらでもある。インターネットに少しつながれば、Youtubeを見れば、いくらでも出て来るではないか。Apple Musicにも、聴き飽きる(私は飽きないが)ほど対象物がヒットする。
ベックは昨年、『ハイパースペース』として我々の前にまた現れた。00年代の、学生の私は『オディレイ』『メロウ・ゴールド』を夢中で聴いていたが、どうやらまだベックは生きている。月曜になれば、出勤の準備がある。今日もシフトが入っている。私も、生きて、また彼らを消費していくのだろう。 

 

最初に掲載されたものよりはうまく書けていると思う(比較の問題)。

ベックについて思うことを書いた。大島弓子の「ダリアの帯」についても。

最初に掲載された音楽文

これは昨年にロッキングオンのサイトに投稿し、掲載されたものである。仕事(非正規)で疲れて、時間がとれたときに投稿していた。

 

この文章が掲載されていたと気づいたのは、載ってから数か月経ってからだった。てっきり、載ったら載ったでメールで知らせてくれるとばかり思っていたので、気づかなかったのだった。それが以下の文である。拙いところもあるが許して欲しい。

 

私は北海道札幌市の生まれで、札幌で育った。札幌には、HMVタワーレコードもある。そこで私は青春を過ごした。中央区の古本屋通いもした。それが今の私を作ったのだった。札幌市内には大丸藤井セントラルがあり、そのてっぺんの階でコーヒーを飲んで暇つぶしをしたりしていた。

今はもう、ないけど、クラウトロックプログレッシヴ・ロックのCDやレコードを専門に置いている小さい店があった。取り扱っているミュージックも、カン、ノイ!、アモン・デュール、マニュエル・ゲッチングファウストグル・グルクラウス・シュルツェ等。17歳だった自分は、少ない小遣いで買えるものだけ買って帰り、MDにコピーしていた。

音楽雑誌に載るものには洋楽だと英語圏のものが多いけど、ドイツのプログレでも、いいものは載っているものだ。ノイ、クラフトワークファウスト等は英米のアルバムに混じって、よく見るものだ。どちらがどれだけ優れている、というのではなく、こういうものがある、という紹介。レビュー。私は、カンのベストCD「カニバリズム」を初めて聴いたときのショックを覚えている。ロックとして、体はなしていて、むしろノイに比べればロックなのだが、それにしても個性的だった。マルコム・ムーニーのボーカルは異様で、『ユー・ドゥー・ライト』のボーカルは、異様すぎる。ミヒャエル・カローリのギターも、正気ではない。ヤキ・リーヴェツァイトのドラムスは、いわゆるチャーリー・ワッツのドラムスを、機械化したものに聞こえた。ともかく、正気じゃない。

実はこれらの演奏は、何時間もカンのメンバーがぶっ続けで演奏したものを、ホルガ―・シューカイが巧妙に編集したものである。もし無編集だったら、聴くにたえない雑音の塊であった。『カニバリズム』自体異様だが、実際は更に異様であった。

それはノイもそうだった。コニー・プランクがうまくミヒャエル・ローターとクラウス・ディンガーのギター、ドラムスを編集したから現代でも評価されているが、これも編集がなかったら、ひどいものであった。キャプテン・トリップから出たノイのライブを聴いたことがあるけど、ひどいにもほどがあるライブだった。聴くにたえない。これは単なる事実である。

当時のドイツの勇気ある若者は、ただ演奏したかったからしていたんだと思う。カンの面子はケルン城を根城に、好き勝手に演奏をした。それはマニュエル・ゲッチングもそうだったと思う。ドラッグの力を借りて、ひたすら快感を求めた。『E2-E4』という究極のアルバムがある。気持ちいい音楽を、ひたすら「やりたいから、やっていた」。他に理由はないと思う。カン、ノイのメンバーも似たようなものだと思う。その結果、とんでもなくユニークな音楽が生まれた。

アモン・デュール。「アモン・デュールⅡ」と別個のバンドだけど、『サイケデリックアンダーグラウンド』という究極のアルバムがある。あきらかにドーピングセッションだ。それが不思議に心地よく聞こえるのだからすごい。行きつくところまで行った、臨界点のアルバム。こういうクラウト・ロックは、興味のない人にとっては、雑音だろう。

クラフトワークは、その中では異色なように思える。クラウス・ディンガーは、明らかにラルフやフローリアンを嫌っていた。デカいシンセを買って、大仰な演奏をしている。ドイツのアングラ層には、煙たがられるだろう。クラフトワークじたい、前身バンド及び初期の三作品は、いまだ非公式だ。

これらの個性ある作品を取り扱ってくれた札幌市のCDショップには、感謝している。ストリーミングサービスには入っていない音源が扱われていた(むろん2000年代当時、ストリーミングなどなかった)のだから。イマジネーションを大いに喚起してくれた。そのちいさな店も、もうない。大学在籍時に旭川に居たけど、そこでもクラウトロックを扱う店があった。今現在、存在しているだろうか。

有名雑誌に出ている大物バンドだけがすべてではないのだ。世界は広い。関係がない話だが、池澤夏樹が編集した世界文学全集、あれも素敵だった。ジーン・リース、ダニロ・キシュ、残雪、フォースター、ニザン、ジャン・ルオー……。すべて、素晴らしい思い出である。今でも読んでいるし、これからも読むだろう。聴くだろう。

そして、クラウス・ディンガーは死んだ。ディーター・メビウスも、コニー・プランクも、死んだ。ホルガーも、リーヴェツァイトも、ミヒャエル・カローリもいなくなった。コンラッド・シュニッツラーも、死んでいる。だが、彼らの遺した音楽は、レコードとして、CDとして残っている。彼らは音楽として生き残っている。『カニバリズム』を聴けば、いつでもホルガーに会える。『ノイ!』を聴けば、いつでもクラウスに会える。「たとい玉は砕けても、瓦は砕けない」と芥川龍之介は言った。その通りで、彼らはいつまでも生き続けるのである。

 

以上である。「fodderstompf 音楽文」で検索すると出てくる。載った以上、著作権ロッキングオンにあると思う。この文章で金儲けしようとは思わないので、見逃してくれることを祈る。